ローマ喜劇の「劇場」


小林 標

本稿を執筆したきっかけは、私が『ローマ喜劇』と題する本(中公新書、2009年8月刊)を書いたことであった。

 

ローマ喜劇、具体的には紀元前3世紀から2世紀にかけてラテン語で書かれ、ローマにおいて上演されたプラウトゥスとテレンティウスの作品は、すべてギリシアの新喜劇か中期喜劇をその種本としている。ギリシア新喜劇作家でただ一人完全な作品を残しているメナンドロスは少なくとも7作を両者に原作として提供していると考えられている。

 

とはいえ、メナンドロスの作のみならず、ローマ喜劇の現存26作品の原作であったギリシア語喜劇が完全に残っている例は皆無であるから、プラウトゥスやテレンティウスがどの程度原作に依存し、どこで独自性を発揮していたのかという問題はここ100年くらいの間延々と論じられて来た。

 

『ローマ喜劇』を書くためにそのような研究を読む必要が私にはあったわけであるが、読みながら疑問を感じることがしばしばあった。たとえば、メナンドロスと彼から4作品を原作として採用しているテレンティウスとの対照についての論考などである。そこに見られるのは総じて語の使い方とか人物の扱い方とか、要するにテキスト上の差異を扱うものでしかない。演劇全体としては同質のものとして、連続した演劇史に属するものとして、見ているのである。研究の出発点としてそれは正しい考え方なのであるか。

 

現存ローマ喜劇の殆どすべてがギリシア新喜劇からその題材を借り来たっていることは自明であるとして、だからと言って、それらを連続した「ギリシア・ローマ演劇史」としてまとめて扱って良いのか、私はかなり疑問に思っている。

 

言うまでもないことだが、演劇とは戯曲だけで成り立つものではない。それが最重要な要素ではあっても、舞台の上で役者によって演技と共に抑揚を伴って発声されることで音声化・可視化がなされるまでは、戯曲は真の意味を持たない。しかもそれだけではまだ不十分であって、そこにいる観客からの反応といった事柄も無視してはいけない。作者は観客からの反応を予測した上で書くのであるから、いかなる反応を期待していたのか、それを探らないことには喜劇研究にはならないと思うのである。単に戯曲として読み解くのではなく、劇場内で出現した演劇全体として考察することが必要なのに、そのような観点からのローマ喜劇研究はかなり乏しいというのが私の印象である。

 

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ローマ喜劇は、ギリシアの場合と同じく国家的祭に関連づけられた行事ではあったが、演劇以外の娯楽、たとえばボクシングとか綱渡りなどと同じ場所で時間をずらして開催され、それらと人気を競い合わされたものであった。テレンティウスの『義母』という作品が二度にわたって上演を中断させられたのは、そのような非演劇的娯楽の方に人々の関心が集中して劇場が混乱状態に陥ったからである。

 

ギリシアの作家、たとえばメナンドロスが他の喜劇作家と人気を競いあうことはあったとしても、演劇という形態そのものが他の娯楽と競い合わされ、もしかするとそれに圧倒されたかも知れぬような事態を想像しえたであろうか。

 

ギリシア新喜劇は、古喜劇、中期喜劇と続いた歴史を礎として生まれてきた演劇で、劇内容は変わってきていようとも、演劇の伝統はともかく強固にあった。一方ローマにおいては、演劇という芸術形態その物が文化先進国ギリシアから輸入された新しい様式であり、民衆の心の中でその立場はまだ確立されてはいなかった。そのような状況の中で作家は、様々な種類の娯楽がなされる同じ場所で、ともかく「演劇」というものを人々の関心の中に押し込む仕事から始めなければならなかったのだ。

 

同じ場所とは要するに劇場のことである。ローマ喜劇とギリシアの喜劇との差異、それを探る切り口はいろいろあろうが、その一つは演劇が行われる場所、「劇場」の実体を見ていくことであると思う。劇場は、多くのローマ喜劇研究書において不当に無視されていると私に感じられた要素である。物理的な劇場の構造に付いての考察はあるが、それだけでは不十分なのであって、劇場という観念そのものについて今一度考察がなされなければならない。

 

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劇場とは多重の意味を持つ言葉だ。多くの人にとって、劇場という語から最初に浮かんでくるのは、舞台と客席を併せ持った建物の外観であろう。しかし、外観や舞台・客席しか思いつかないのは素人だけであって、演劇の内実を多少とも知る人々にとってはそれでは不足であり、楽屋のごとき別のスペースも必要だし、大道具だの、それらを操るための裏方の人員までもが劇場の必要条件として考えられることであろう。つまり、物理的実体以外の事柄も劇場を意味するものの一部として想定されるはずだ。劇場とは演劇を行うために必要な条件を備えた場所のことなのだ。

 

しかし、「演劇のために作られた場所」と言い切ってしまえば、建物自体はもはや必要条件ではなくなってしまう。演劇的行為が行われている場所であれば、演技する人がいて見物する人々が集まっていれば、そこは劇場であると言えることになる。ローマ喜劇作家にとって劇場はどんなものとして存在していたのか。

 

ギリシア新喜劇の作者には、劇場が何であったのかなどと問う必要は無い。ディオニュソス劇場のごとき物理的実体が前時代から威圧的なまでに存在していたのであるから。ところがローマ喜劇が書かれた時代には、そんな実体としての劇場は存在しなかった。ローマでの最初の石造り劇場の建設は、テレンティウスの死後100年経ってからのことである。プラウトゥス、テレンティウスにとっては、祭のたびに建設され、その後取り壊される舞台とその前の客席のスペースこそが劇場であった。そしてそれはボクシングのごとき演劇以外の娯楽にも使われるものであった。つまりそれは劇場と言うよりは、「演劇も行われうる場所」という観念上の存在に限りなく近いものであったのである。

 

* * *

 

その、「劇場として想定された仮の場所」で、彼らは懸命に「演劇の価値」を観客に訴えたのであった。ローマ喜劇作品の多くには、本筋が始まる前に劇の内容とは無関係な存在によって観客に述べられる前口上(プロログス)がついている。そこで作者は繰り返し「静粛を保って劇を見てくれ」と懇請するのである。

 

プラウトゥスは『カルタゴ人』という作品のプロログスで、まことに彼らしく滑稽に、客席内にいる人々を名指しする。彼の言うところではそれは「年増の男娼、横着な奴隷、席を見つけられずにいる自由民、仕事を忘れかけの乳母、腹を空かした幼児、おしゃべりに夢中の主婦」なのであるが、彼の真意は観劇マナーの徹底を呼びかけることである。

 

テレンティウスはそのプロログスで、自分の作風に批判的な老作家がいて自分の地位が脅かされていると言う。その言葉をそのまま文献学的資料とし、彼への批判者を同定したり批判の内容を分析したりする古い研究があるが、劇場内で観客に向かって発せられた言葉を大まじめに解釈するのは見当違いだ。テレンティウスの狙いは別にある。劇界の内幕をほのめかすことで彼は自作をアピールする機会としているのではあっても、彼にとってのもっと緊急なねらいは「演劇」という娯楽その物に人の関心を引きつけることなのだと私は考える。

 

『義母』のプロログスでテレンティウスは、自作の宣伝以上に演劇(ludi scaenici)を、さらには芸術一般(ars musica)を擁護せよと観客に訴えている。これは、芸術活動のためのマニフェストとして読まれるべき言葉である。テレンティウスのこの言葉は、同じく演劇に関する文言でもアリストテレスが行ったような過去に書かれた作品の分析ではなく、演劇制作の現場から発せられたマニフェストであるがゆえに貴重なのである。

 

プラウトゥスとテレンティウスの時代、ギリシア式の劇場はなくとも演劇はあった。演劇を創ろうとする熱意があったからだ。だから「演劇が行われる場所」として設定された臨時の舞台・客席があれば演劇が可能になったのである。ローマの共和制末期や帝政期になると、石造りの堂々たる劇場が造られ続ける。しかしそれは、演劇の創造力が枯渇して100年も経った後なのだし、そこでは演劇は創造されなかったのである。セネカの書いた悲劇は、劇場とは完全に無関係である。

 

「ローマ喜劇は文化運動であった」と私は書いた。ギリシアでは不要であった、このような運動性を無視してローマ喜劇を論じ、ひいてはギリシア・ローマ演劇史を論ずるのは浅慮というべきではないのか。『ローマ喜劇』を書き終わった今、私はその思いをさらに強くする。

 

この論考は、『ギリシア喜劇全集』第6巻「メナンドロス II」(岩波書店 2010年)の小冊子「月報7」に寄せられた文章を、著者の了解を得て一部改変のうえ掲載させていただいたものです。

盛 会 御 礼


 東古典学舎・横古典学舎

「春のうたげ」のご案内

 

春らしい草花も咲き始め、あるいは花粉も飛び始めて

いよいよ新たな季節がやって来ようとしています。

 

今回は午後から夜にかけて、たっぷり時間をとっての二部構成。

内外の学友が集うこの機会に、ぜひお出かけください。

 


2023年 3月23日(土)午後から夜まで!

 

第1部では特別企画として、ラテン語・ロマンス語学の専門家であり、また東西の演劇文化について造詣の深い 小林 標(こばやし こずえ)先生(大阪市立大学名誉教授)に「ローマ喜劇を読み直す」と題してご講演いただきます。今回の企画に寄せて、御著書『ローマ喜劇』(中公新書)を30部ほど東京古典学舎にご恵贈いただきました。この場を借りてあらためてお礼申し上げます。これにあわせて、先ごろ『世界はラテン語でできている』を出版した当学舎研究員の「ラテン語さん」に、執筆の動機やエピソードなどを紹介してもらいます。同じ会場にて、夕方からは第2部として懇親会を開催します。みなさま、お時間の都合がつく範囲でお付き合いいただければ幸いです。

 

・第1部

  13:30~ 開場

  14:00~ ラテン語さん「世界はラテン語でできている」

  15:00~ 小林標先生 講演「ローマ喜劇を読み直す」

  17:00   第1部閉会

・第2部(懇親会)

  17:30~ 受付

  18:00~ 乾杯

  21:00   閉会

 


【会場】府中市市民会館 ルミエール 1F「飛鳥 C 」(1階正面奥、左手の小ホール)にて

https://www.lumiere-fuchu.jp

府中駅北口より徒歩5分ほど。または府中駅より「武蔵小金井」行きのバス、二つ目の停留所「ルミエール府中」下車。

詳しくは上記リンクページの「交通アクセス」にてご確認ください。

なお当日は会場周辺で「府中市民桜まつり」が開催される予定です。多くの人出が見込まれ、また交通規制もかかる

ようですので、とくにお車でお越しの際にはご注意ください(ルミエール駐車場は使用可とのことです)。

 

懇親会 会費:2,000円 当日ご用意ください。第1部のみ参加の場合にはお支払いただく必要ありません。

立食形式で食事・飲み物を用意します。会費を抑えてありますので、飲み物・おつまみ の持ち寄りを歓迎いたします。

 

【オンライン参加】

当日 zoom にてご参加いただく場合には、次のアドレスにつないでください。

 

トピック: 古典学舎 通信教室のパーソナルミーティングルーム

参加 Zoom ミーティング

https://zoom.us/j/9095050505?pwd=dzh1WFNKT2JmdmtGVjY0aVhscDBTdz09

ミーティング ID: 909 505 0505

パスコード: 23tiAE

 

当日お目にかかるのを楽しみにしております。